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東京地方裁判所 昭和59年(ワ)8875号 判決

主文

一  甲事件被告日本国有鉄道清算事業団及び東京都は、甲事件原告仲本昭に対し、各自金一六一万円を支払え。

二  乙事件被告乙野次郎は、乙事件原告仲本昭に対し、金九〇万円及びこれに対する昭和五五年八月五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

三  甲事件原告仲本昭のそのほかの請求を棄却する。

四  訴訟費用は被告らの負担とする。

五  この判決は、甲事件・乙事件原告勝訴部分に限り、仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  甲事件の請求の趣旨

1  被告東京都及び同日本国有鉄道清算事業団は、原告に対し、各自金一六五万五〇〇〇円を支払え。

2  被告東京都及び同日本国有鉄道清算事業団は、別紙のとおりの謝罪広告をせよ。

3  主文第四項と同じ。

4  右1及び3につき仮執行宣言

二  甲事件の請求の趣旨に対する被告日本国有鉄道清算事業団の答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

三  甲事件の請求の趣旨に対する被告東京都の答弁

1  前項1及び2と同じ。

2  仮執行宣言が付される場合には、担保を条件とする仮執行免脱宣言

四  乙事件の請求の趣旨

1  主文第二項と同じ。

2  主文第四項と同じ。

3  仮執行宣言

五  乙事件の請求の趣旨に対する被告乙野の答弁

二項1及び2と同じ。

第二  当事者の主張

一  甲事件の請求原因

1  乙事件被告乙野次郎(以下「乙野」という。)は、昭和五五年七月二四日午前八時四〇分頃、中野駅を出て新宿駅に向かう途中の日本国有鉄道中央本線快速電車内において、同人がズボンの右後ろのポケットに入れていた同人所有の定期入れ(現金在中)をドア付近に立っていた原告にすりとられそうになったとして、原告のネクタイをつかんで逮捕した。

2  新宿鉄道公安室捜査主任三村包廣(以下「三村」という。)は、日本国有鉄道が費用を負担し、運輸大臣の指揮監督を受けて国の公権力を公使する鉄道公安職員であった。

3  三村による違法な公権力の行使

(一) 鉄道公安職員には、被害者のみの言い分によらず、被疑者の弁解を聞き、公正な判断をする義務がある。原告は、新宿鉄道公安室で小部屋に閉じ込められた時、原告を監視していた年齢三〇歳位の鉄道公安職員に対し、「乗っていた電車が先行車二本の運休やドア故障のため非常に混雑していたが、原告が車内で向きを変えようとして、体を動かし回転し終わったとたんに、乙野によって盗人呼ばわりされた。」旨の弁解をしたが、その職員は無言であり、他の者にそれについて報告をせず、主任の三村ほかの鉄道公安職員も原告から答弁を聞かないまま、素人である乙野が言うことだから間違いがないという誤った観念から、同人の言い分について不合理な点がないかどうかを検討することなくこれをうのみにして、原告をすり犯ときめつけた。

(二) 鉄道公安職員は、私人から現行犯逮捕した被疑者の引渡を受けたときは、現行犯逮捕の要件を満たしているかどうかを審査し、要件を満たしていない場合は被疑者を釈放する義務がある。

乙野は、鉄道公安職員に、自分の後ろに立っている男が紙筒を持っていた。その先端が自分の尻ポケットに当たっているように感じた。それでポケットの中の定期入れを上げているのだと思ったと供述していた。しかし、軟らかくて先端が丸い紙筒でポケット内の定期入れを押し上げられるはずはなく、実験の結果でも不可能であることが判明している。このようなありそうもない憶測を軽信して、すりの犯罪行為の存否に疑問をもたなかった公安職員には、まずこの点で過失がある。また、乙野は、すりの実行行為自体や原告が乙野の定期入れをもっていることを目撃したわけでもなく、また定期入れの状態を確認したとも供述せず、単に財布をすりとられた感触があったということ、原告が乙野の後ろに接着していたことのみから逮捕したと申し立てたものである。当日の車内は、超満員の状況にあり、原告以外の何者かのカバンや、手など何らかの固形物が乙野の右後ろポケットあたりに接触していた可能性があり、その可能性は否定できないのであるから、乙野の供述するところによっても、窃盗未遂の犯罪行為は勿論、原告が犯人であることも明らかではなかったものである。そうであれば、原告を現行犯人として逮捕するための要件は満たされていなかったのであり、三村はそのことに気づいて、適法な逮捕によらないで拘束されている原告を釈放するべき義務があったのに、乙野の申立てを吟味せず、軽々に逮捕の要件があると誤認して、拘束を継続した三村には過失がある。

(三) 三村は、原告を新宿警察署に引致するとき手錠を使用した。しかし、原告には逃亡や自殺等のおそれがなかったから手錠を使用する必要は全くなく、原告は、違法に名誉を侵害されたものである。

4  新宿警察署刑事課捜査係長山口敬吉警部補(以下「山口」という。)は、被告東京都の公務員であった。

5  山口による違法な公権力の行使

(一) 山口は、刑事訴訟法上の司法警察員であったところ(刑事訴訟法第百八十九条第一項および第百九十九条第二項の規定に基づく司法警察員等の指定に関する規則一条一項)、司法警察員は、私人から現行犯逮捕した被疑者の引渡を受けたときは、現行犯逮捕の要件を満たしているかどうかを審査し、要件を満たしていない場合は被疑者を釈放する義務がある。

ところが、山口は、三村と同様に、乙野の供述の不自然さに気づかず、そのありそうもない憶測を軽信した過失があるばかりでなく、乙野の供述によっても、犯罪及び犯人は明白でないのに、明白であるかのように誤信して、現行犯逮捕の要件があると判断して、原告を釈放せず拘束を継続した過失がある。

(二) 山口は、次のような不法な取調べにより、犯行を否認する原告をして虚偽の自白をさせた。

(1) 長時間取調べ

山口は、昭和五五年七月二四日、午後三時ころより取り調べを開始し、夜間八時半に及んだ。これは、不法に長時間の取り調べである。

(2) 脅迫と利益誘導

山口は、右の取り調べにあたり、原告に対し、「原告には前科もないようだし、自白すれば寛大に取り計らってもらうように書いてやるから、明日区検に行って釈放になる。逆に、否認すれば裁判になるが、否認はとおらない。また、裁判所は夏休みに入るから、公判期日は九月中旬になるが、それまで留置場にいるのか。」という趣旨を述べ、自白をするよう不法に脅迫し利益誘導した。

(3) 不法な架電禁止

山口は、右取り調べの際、原告が勤務先や自宅、さらには当時アルバイトとして仕事を頼まれていた製図の発注先に対し、事情を説明するため架電したいと申し出たのに、不法にこれを禁止した。この禁止は、弁護人選任権の妨害にもあたり、不法な行為である。

6  損害

三村及び山口の違法な公権力の行使により、原告は、次の損害を被った。

(一) 原告は、弁護人に対する報酬、交通費、その他本件に関する諸費用合計六〇万円を支出し、同額の損害を被った。

(二) 原告は、昭和五五年七月二五日、検察官に送致され、同日勾留されたうえ、右勾留は延長され八月四日ようやく釈放され、この間身柄拘束により精神的損害を被った。このように七月二五日から八月四日まで一一日間身体を拘束されたことによる慰謝料は、一日あたり五〇〇〇円、合計五万五〇〇〇円が相当である。

(三) 原告は、身柄事件の被疑者として縄目の恥を受け、家族への心配をさせられ、会社の上司、同僚、隣人等からの信用を失墜する等の精神的損害を被った。これに対する慰謝料は一〇〇万円が相当である。

7  日本国有鉄道は、日本国有鉄道清算事業団法(昭和六一年法律第九〇号)により、昭和六二年四月一日、日本国有鉄道清算事業団に移行した。

8  よって、原告は、日本国有鉄道清算事業団及び東京都に対し、国家賠償法による損害賠償請求権に基づき、連帯して一六五万五〇〇〇円の支払及び謝罪広告を求める。

二  甲事件の請求原因に対する被告日本国有鉄道清算事業団の認否

1  請求原因1及び2の事実は認める。

2(一)  請求原因3(一)の事実のうち、弁解を聞かなかったとの事実を否認する。鉄道公安職員である鉄道公安班長訴外宮崎秀信及び同中戸川進一と三村は、原告に事実上弁解の機会を与えたが、原告は、机の上に出していた両手を震わせながら何もやっていないというだけで、積極的に弁解や抗議をすることもなかったものである。

(二)  請求原因3(二)について、鉄道公安職員は、私人がした現行犯逮捕について、逮捕の要件が充足されており、かつ、それが誤逮捕であることが明らかとなった場合に当たらないときは、引渡を受けた現行犯人を速やかに検察官又は司法警察職員に引致の上事件の引き継ぎをすることが法令上の責務とされている(鉄道公安職員の職務に関する法律三条、刑訴法二一四条、鉄道公安職員捜査要則一六、一七条)。

そして、現行犯逮捕は、逮捕者が犯行を現認した場合のほか、逮捕者が直接覚知しえた諸般の状況から合理的に判断して、ある特定の犯罪を行い終わった瞬間の、あるいはこれに極めて接着した時間的段階にある犯人であることが明らかな場合も可能であると解すべきである。

本件では、三村は、誤認でないかどうか確認するため、指揮下の職員に乙野及び原告の供述を聴取させ、また自ら事情聴取をしたところ、乙野は、定期入れを入れていた自分のズボンの右後ろポケットのあたりに異常な感触がし、ポケットの底まで入れていた定期入れが電車のゆれと同時に少しずつ上に上がり、最後には完全に抜き取られた感じがしたこと、乙野のま後ろに原告が密着する状態で立っているのが見えたこと、原告を逮捕するときには、定期入れがポケットから約五センチメートル出ているのが見えたこと、原告が左手を後ろに隠したような感じであったことを供述した上、原告が所持していた紙筒も固いものであってこれで財布を突き上げることもあながち不可能ではないと思われたのに対し、原告は、鉄道公安班長の宮崎秀信、同片山廣一、同中戸川進一及び三村の問に対し、すりはやっていない、紙筒を返してくれ、帰してくれというのみで何ら具体的な供述をせず、手を震わせて下を向いていて何も言わないので、これらの乙野の供述と原告の態度状況からみて、原告の逮捕については現行犯逮捕の要件が充足されており、また誤逮捕であることが明らかな場合にあたる事情もないと判断したもので、三村のこの判断には過失はない。

(三)  請求原因3(三)のうち、原告を新宿警察署に引致するときに手錠を使用したことは認める。自殺等不測の事態があるから、使用の必要を認めたものであり、違法ではない。

3  請求原因6の事実のうち、原告が弁護人選任による弁護料、交通費、その他本件に関する諸費用六〇万円を支出したことは不知。原告が検察官に送致され、八月四日まで勾留された事実は認める。精神的損害は争う。

三  甲事件の請求原因に対する被告東京都の認否

1  請求原因1、2及び4の事実は認める。

2(一)  請求原因5(一)については、現行犯逮捕は、逮捕者が犯行を現認した場合のほか、逮捕者が直接覚知しえた諸般の状況から合理的に判断して、ある特定の犯罪を行い終わった瞬間の、あるいはこれに極めて接着した時間的段階にある犯人であることが明らかな場合も可能であると解すべきである。本件では、乙野が覚知した状況は、定期入れを入れていた自分のズボンの右後ろポケットのあたりがもぞもぞし、ポケットの底まで入れていた定期入れが電車のゆれと同時に少しずつ上に上がる感触があり、最後にはこれがすっと抜けたような感触がしたこと、乙野のま後ろに原告が密着する状態で立っていることが見えたこと、原告を逮捕するときには、定期入れが約五センチメートルポケットから出ていることが見えたこと、定期入れがすっと抜けたような感触がして左後ろを見ると原告の手が尻ポケットから離れるところが見えたが、手には定期入れは握っていなかったこと、原告が一瞬紙筒を後ろに隠すような仕草をしたのが見えたこと、原告をつかまえたとき、原告は顔面真っ青になって目だけがぎらぎらし、その後観念するかのようにうつむいたことである。これらの乙野の覚知した状況からみると、犯罪及び犯人は明白であり、現行犯逮捕の要件は充足されていたものである。

(二)  請求原因5(二)のうち、山口が不法な取調べにより、犯行を否認する原告をして虚偽の自白をさせたとの事実を否認する。

請求原因5(二)(1)の事実のうち、午後三時ころより取調べを開始したことは認める。取調べの終了時刻は午後七時である。

請求原因5(二)(2)の事実は否認する。

請求原因5(二)(3)の事実のうち、原告に電話をさせなかったことを認める。原告が警察に引致された直後、警察官が弁護人選任権を告知したところ、原告は、国選でよいといい、特に弁護人との連絡を希望しなかった。また、原告が電話をしたいと申し出たのは、弁護士に対してではない。したがって、山口が原告に対し電話をさせなかったからといって、弁護人選任権の妨害にはならない。

3  請求原因6の事実のうち、原告が弁護人選任による弁護料、交通費その他本件に関する諸費用六〇万円を支出したことは不知。原告が検察官に送致され、八月四日まで勾留された事実は認める。精神的損害は争う。検察官送致後は、検察官の権限と責任で勾留請求、取調が行われるから、山口の取調と勾留との間には因果関係はない。

四  乙事件の請求原因

1  乙野は、昭和五五年七月二四日午前八時四〇分頃、中野を出て新宿に向かう途中の日本国有鉄道中央本線快速電車内において、同人がズボンの右後ろのポケットに入れていた同人所有の定期入れ(現金在中)をドア付近に立っていた原告にすりとられそうになったとして、原告のネクタイをつかんで逮捕した。

2  乙野の行為の違法性および同人の故意又は過失

(一) 乙野は、原告を無実と知りながら、あえて逮捕した。

(二) 仮に故意がないとしても、乙野は、すりという犯罪行為が行われ、原告がその犯人であるということが明らかでないのに、これを誤認して、原告を現行犯逮捕した過失がある。すなわち、乙野はすりの実行行為自体を目撃したのではなく、原告が乙野の定期入れを持っていたわけでもない。乙野は、原告を逮捕する直前に、原告が乙野の定期入れを持っていないことに気づいたが、定期入れを入れていた自分のポケットの状態は確認していない。原告を逮捕した根拠は、単に定期入れをすりとられた感じがしたこと、乙野の後ろに原告がいたこと、原告が紙筒を持っていたことだけである。

この程度の事実からは犯罪及び犯人が明らかであるとはいえないから、本件の逮捕は違法であり、過失もあるというべきである。

(三) また乙野は、原告が無抵抗であり、電車内は大混雑して身動きができないほどであって、原告は逃げようにも逃げられない状況にあったにもかかわらず、必要もないのに原告を逮捕した。

(四) さらに乙野は、公衆の面前で原告のネクタイをワイシャツごと掴み、しかも電車を降りて新宿駅の鉄道公安官分室に着くまでその手を離さなかった。

この行為は、原告の名誉や苦痛にたいする配慮を欠く不法な行為である。

3  損害

乙野の違法行為により、原告は、次の損害を被った。

(一) 原告は、弁護人に対する報酬、交通費、その他本件に関する諸費用合計六〇万円を支出し、同額の損害を被った。

(二) 原告は、昭和五五年七月二四日逮捕され、翌二五日、検察官に送致され、同日勾留されたうえ、右勾留は延長され八月四日ようやく釈放され、この間身柄拘束により精神的損害を被った。このように七月二四日から八月四日まで一一日間身体を拘束されたことによる精神的損害の慰謝料は、一日あたり五〇〇〇円、合計六万円が相当である。

(三) 原告は、身柄事件の被疑者としての縄目の恥を受け、家族への心配をさせられ、会社の上司、同僚、隣人等への信用を失墜する等の精神的損害を被った。これに対する慰謝料は、一〇〇万円が相当である。

4  よって、原告は、乙野に対し、不法行為による損害賠償請求権のうちの一部である九〇万円及びこれに対する不法行為終了後である昭和五五年八月五日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による金員の支払を求める。

五  乙事件の請求原因に対する乙野の認否

1  請求原因1の事実は認める。

2  請求原因2(一)のうち、逮捕の事実は認め、無実と知っていたとの事実は否認する。

請求原因2(二)ないし(四)は争う。

3  請求原因3は争う。

第三  証拠〈省略〉

理由

一  次の事実は、当事者間に争いがない。

乙野は、昭和五五年七月二四日午前八時四〇分頃、中野駅を出て新宿駅に向かう途中の日本国有鉄道中央本線快速電車内において、同人がズボンの右後ろのポケットに入れていた同人所有の定期入れ(現金在中)をドア付近に立っていた原告にすりとられそうになったとして、原告のネクタイをつかんで逮捕した。

二  乙野の責任について判断する。

1  乙野が原告は無実であると知りながら逮捕行為に及んだことを、認めるに足りる証拠はない。

2  乙野の逮捕行為に違法性及び過失があるとの主張について判断する。

(一)  証拠によれば、原告を逮捕した当時の状況として、次の事実が認められる。

(認定に供した証拠は、認定事実の次に掲げる。成立について説示のない証拠は、成立に争いのない証拠である。また、人証調書の引用については、供述者別に、甲事件・乙事件を通じ、尋問の行われた日の順に一回、二回と表示する。以下同じ。)

(1) 原告と乙野は、七月二四日午前八時四〇分頃、同じ電車に乗っていた。電車が中野駅を出る頃、乙野は、進行方向に向かって左側のドア及び戸袋のすぐ横に、進行方向を向いて立ち、左腕を上げて手と肘をドアにあてて身体を支え、右手で座席の端部の柱を握っていた。原告は、その頃、ドアの横の乙野の後ろの位置に立っていた。

電車は、混雑が激しく、身動きが困難な状況であった。

証拠〈省略〉

(2) 乙野は、ズボンの右後ろのポケットに入れていた厚さ約一センチメートルの定期入れが、三、四回にわたり、少しずつ上に上がるように感じたので、すりではないかとの疑いを抱いた。乙野は、以前三回すりの被害にあったので、今回もそうではないかと注意した。乙野は、もしすりであるなら乙野の後ろにいる者が犯人であろうと考え、その者の服装を確認しようと思った。そこで、乙野が左から後ろを見ると、原告が、図面のようなものを巻きビニールでくるんだ筒を、持っていたのが見えた。乙野は、それまで指で直接定期入れを押し上げているのかと思っていたが、これを見て、その紙筒で定期入れをあげているのかもしれないと思った。

実際に原告は、トレースのアルバイトをしており、アルバイト先に届けるべきトレース紙を筒状に巻き、これを両腕を下げて両手で持っていたのであった。

乙野は、その後更に定期入れが上に上がるように感じ、最後に定期入れが完全にポケットから抜き取られるように感じた。

その頃、電車は、東中野を過ぎて右に曲がり、原告は、右から左に強く押されて左肩がドアの窓ガラスに押し付けられたので、ガラスを割らないため肩をガラスから離そうとして、左に向きを変えた。

証拠〈省略〉

(3) 乙野は、原告が乙野の定期入れをすりとったものと思い、左から後ろを振り向き、原告を見たが、原告は、乙野の定期入れを持っていなかった。

この時、原告はドアの方を向いて立っていた。

乙野は、おかしいと思い、今度は右から後ろを見て自分のズボンの右後ろのポケットを手と目で確かめたところ、定期入れが、ポケットの入口から三角形状に、一番高いところで三ないし四センチメートル出ていた。

そこで、乙野は、ポケットの底まで入れておいたはずの定期入れが、そう簡単に上に上がるはずはないから、乙野の後ろにいた原告が定期入れをすりとろうとして失敗したものと思い、再び左から後ろを向いた。そして、乙野は、原告とともにドアの方に向くような状態で、「何をするんだ。お前はプロのすりか」とどなり、左手で原告のネクタイの結び目のあたりをワイシャツごと掴み、原告を窃盗(すり)未遂の現行犯として逮捕した。

証拠〈省略〉

(二)  右に認定したところをもとに、まず、乙野が考えたような窃盗未遂の犯罪行為があったのかどうかを検討する。

乙野が原告を逮捕する直前、乙野の定期入れが同人のポケットから三角形状に三、四センチメートル出ていたことは、先に認定したとおりである。このことからみると、すりの犯罪行為があったことは、自明のことがらであるように見える。

しかしながら、仔細に検討してみると、果たして定期入れがズボンの底から上がったのかどうか、またそれが人為的な原因によるものかどうかの二点について、これを客観的に確認するに足る証拠は、存在しない。まず、乙野は、以前すりの被害にあったこともあり、常に定期入れをポケットの底まで押し込む癖があったと供述する(一回一五丁)。しかし、乙野が、逮捕当日電車に乗る時に、実際どれだけ定期入れをポケットの中に押し込んだのかは明確ではない。そして、乙野の供述するところをみても、同人のいうところのすりの被害に遭う前、あるいは定期入れが押し上げられているという時期に同人がポケット内の定期入れの位置がどこにあるのかを目で確かめたり、あるいは、手で確認したことはないようであって、定期入れがポケットの中で移動したことを裏付ける資料としては、乙野のいうところのポケットのあたりの感じというものがあったというだけである。

しかし、ズボンの後ろのポケット付近は、人間の皮膚の感覚がそれほど鋭敏なところでないことはすでに知られた事実であるし、まして定期入れが、直接皮膚にさわっているわけではないのであるから、はたして乙野の感覚が正確なものか、それ自体疑問を挟む余地が大きい。このことは、乙野が最後に定期入れを完全に抜かれたような感じがした(一回一二丁)というのに、実際には定期入れは抜き取られておらず、客観的事実とも符合していないことにもあらわれている。このように人間の皮膚感覚には限界があり、これに頼る判断には相当の誤差が免れない以上、定期入れがポケット内で移動したという事実を客観的に裏付けるものは、特にあるわけではないということになるのであって、この点の判断を動かすに足る証拠は存在しない。

次に、定期入れがポケットの中で移動したと仮定して、それが人為的なものであったかどうかをみると、当時電車内は大変混雑していただけでなく、電車が大きく揺れて乙野自身の身体も前後に大きく傾くことがあったことは、同人の供述するところである。そうであれば、乙野の周りにいる他の乗客のカバンなどが乙野の身体に当たり、乙野のポケット内の定期入れが動かされることも充分に考えられるが、乙野は、原告を逮捕する直前を除いて、右から後ろの方を向いてポケットの付近を確認したことはなかったと認められる(乙野本人尋問の結果三回一五二項)。このように、乙野の定期入れが動かされたとしても、それが人為的な原因によるものでない可能性が排除されないとすれば、結局何人かが乙野の定期入れを上に上げたということ自体が明らかであるとはいいえないものである。そうすると、乙野が原告を逮捕した当時すりの犯罪行為があったということは確定することができないのであり、すりの犯罪行為の存在を前提とする乙野の主張は、採用することができないものである。

(三)  次に、仮に何人かによるすりの犯罪行為があったとして、それが原告の犯行であったかどうかを検討する。

すでに認定したとおり、原告は乙野の後ろに密着していことがあったが、電車は大変混雑していたものであって、乙野の右隣や右後方にも人がいたのである。そうすると、これらの人が手を出す可能性があることになるが、前述のとおり、乙野は自分の右隣や右後方の状況を確認しておらず、このような可能性を排除することはできない。乙野は、あるいは、電車は大変混雑していたから、乗客同士は原告や乙野も含めて密着した状態にあって、原告以外の者が手を伸ばすことはできないと主張するのであるかもしれない。しかしながら、原告も乙野も、横を向くなどの動作を現にしており(二2(一)(2)及び(3)項で認定)、身動きをする余裕もなかったわけではなく、乗客同士がいつも完全に密着していたとはいえないから、原告以外の者が手を伸ばす可能性もあったものといわなければならず、乙野の後ろにいたというだけで、原告を犯人とするのは、あまりにも軽率といわねばならない。

さらに乙野は、原告は顔面真っ青で脂汗を流していたというのであるが、そのような事実があったことを認定するに足る客観的な資料はないし、また、仮にそれに近い状況があったとしても、異常な雰囲気のもとで突然犯人呼ばわりされれば、人が普段と異なる表情を見せることは充分考えられるから、この点を考慮にいれてもなお原告を犯人とするに充分とはいいえないものである。

そして乙野は、原告が紙筒を持っていたということを犯人と結び付ける根拠としているようであるが、紙筒を使用したすり犯が一般的なものであることを認めるに足りる証拠はないし、乙野も、単にプロのすりは道具を用いることがあると人に聞いて、そのことから紙筒を用いたすりではないかと想像したにすぎないものと認められる(被告乙野本人尋問の結果一回四八丁、三回四九、五〇項)。そして、トレース紙を円筒状に巻いた紙筒のように、軟らかく、かつ先端が丸いもので、ズボンの後ろのポケット付近を押すなどしても紙筒がズボンの生地の上をすべることになるであろうことは容易に推測することができ、それによってポケット内の定期入れが押し上げられるなどといった結果が生じるとは考え難いのであり、そのことは、原告が逮捕勾留されてから大森検察官のした実験でも確かめられている(このような実験がされたことは争いがない。)。そうすると、紙筒の所持は、原告を犯人とする資料というにはあまりに根拠薄弱なものといわねばならない。

ところで、証人大森孝は、本件の逮捕当日作成された乙野の鉄道公安職員に対する供述調書(以下「公安官調書」と略称する。)には、逮捕の直前に原告の手が乙野のポケットからすっと離れたとの記載があると証言する(一回六丁)。このような事実があったとすれば、すり犯との疑いが生じうるのであろうが、証人山口敬吉や被告乙野の供述にはそのような事実は全く現れないうえ、乙野が左後ろを振り返って見たときの原告の手には定期入れがなく紙筒のみであったとの乙野の供述とも一致しないところがあるから、そのような事実が客観的に存在したとは認められないし、また乙野がそのように供述したかどうかも疑わしいといわなければならない。

乙野は、逮捕直前に乙野が原告の手を見たとき、原告がどちらかの手に持った紙筒を隠すようにしたと供述し(一回一七丁)、証人山口敬吉も、乙野の公安官調書に、乙野が仲本の手を見たとき左手を隠すようにしたとの記載があったと証言する(一回三丁表、二回二丁裏)。しかしながら、証人大森孝は、乙野の公安官調書にそのような記載があったとの証言をしておらず、右のような供述があったかどうか疑わしいといわなければならない。そして、仮に紙筒を持った原告の手が左へ動いたことがあったとしても、原告は、当時前記認定のとおり、ガラスを割る危険を感じて前方を向いた姿勢を変えてドアの方に向いたものと認められ、そうであれば、当然紙筒を持つ手も左へ動くことになるから、このような紙筒を持った手の動きのみでは、原告を犯人とする根拠とすることはできない。

以上検討したところによれば、仮に何人かのすりの犯罪行為があったとしても、それが原告の犯行であると断定するに足る根拠はないばかりでなく、断定するに至らなくても原告が犯人ではないかと疑うに足る相当な根拠があったかというと、そのような根拠も存在したとは言い難いものといわねばならない。

右にみたとおり、すりという犯罪行為があったかどうかそれ自体が明らかでなく、仮に犯罪行為があったとしても、原告がその犯人であるかどうか明らかでなく、原告を犯人ではないかと疑うに足る相当な根拠さえもあったとは言い難いのであるから、乙野が原告を逮捕した行為は違法であったといわざるをえず、過失も否定することはできないものといわなければならない。

3  ところで、乙野は、混雑した電車の中において、公衆の面前で原告のネクタイをワイシャツごと掴んだことは前述のとおりであるが、〈証拠〉によれば、乙野は、電車を降りて新宿駅の鉄道公安官分室に着くまで、その手を放さなかったことが認められる。上記のとおり乙野の逮捕行為には違法がある以上、右の乙野の行為もまた、原告の名誉や苦痛に対する配慮を欠く不法な行為というべきであり、乙野の責任は免れ難い。

三  日本国有鉄道清算事業団の責任について

1  次の事実は、当事者間に争いがない。

新宿鉄道公安室捜査主任三村は、日本国有鉄道が費用を負担し、運輸大臣の指揮監督を受けて国の公権力を行使する鉄道公安職員であった。

2  まず、鉄道公安職員が、乙野の逮捕の違法性を看過して原告を釈放しなかったとの主張について、判断する。

(一)  まず捜査機関が私人から現行犯逮捕した被疑者の身柄を引き渡された場合、捜査機関は、右の私人の逮捕に、現行犯逮捕の要件が備わっていたかを審査し、もし備わっていないと判断した場合には被疑者を釈放(但し、通常逮捕、緊急逮捕は妨げない。)する義務があると解すべきである。このように解すべきことは、

ア 現行法上、捜査機関は、被疑者を直ちに裁判所に引致することは求められていないし、現行犯逮捕では事前の司法審査が行われていないのであるから、私人による逮捕に違法があった場合の救済は捜査機関の審査によるほかないこと、

イ 刑事訴訟法二一四条が捜査機関への引渡を求めているのも、捜査機関による審査を予定していると解しうること、によっても明らかである。

しかしながら、捜査の初期の段階において、現行犯逮捕の要件についても詳細な捜査を求めると、捜査の迅速な進展を妨げるおそれがある。したがって、客観的な物証等がない場合には、捜査機関は逮捕者の供述のみにより、かつ、特段の事情がないかぎりこれを信用して、現行犯逮捕の要件である犯罪及び犯人の明白性に関する事実を認定し、それを前提にして、現行犯逮捕の要件があるかどうかの判断をすることが許容されているものと解すべきである。

そして、司法巡査等、司法警察職員又は検察官に被疑者の引致義務を負う者が私人から身柄の引渡を受けたときも、被逮捕者の早期救済の必要性は変わらないのであるから、右の者には逮捕要件の審査義務があるというべきであり、このことは、引致義務を負う鉄道公安職員についても変わりはないというべきである。

(二)  そこで、本件について検討するのに、証拠によれば、次の事実を認めることができる。

乙野は、原告を新宿駅の鉄道公安室に連行した後、同所で鉄道公安職員に対し次のように述べた。

電車は、混雑していた。乙野は、ドアの窓のガラスに左手をついて、右手は座席の端部の柱を握っていた。電車が中野を出てから、ポケットに入れていた定期入れが二センチ上に上がった。乙野は、以前三回、ズボンの後ろのポケットに財布を入れていてすりにあったことがあるから、今回もすりではないかと思い、左から後ろを見ると、原告が紙の筒をもっているのを発見した。その紙筒の先端が、乙野のズボンの後ろポケットの下に当たっているように感じた。乙野は、紙筒を用いて定期入れを突き上げているのだろうかと思い、しばらく注意していた。乙野は、定期入れがまたぐいぐい上がったように感じた。同人は、最後に、定期入れがすっと抜かれたように感じたので、原告にすられたと思って左からふりかえって原告の手を見た。しかし、定期入れは、原告の手にはなかった。そこで、あれと思って右を向いてポケットを見たら、定期入れが五センチ位上がっていた。そこで、これ、やったんだなと思って、捕まえた。

証拠〈省略〉

以上の乙野の供述について考えると、乙野が原告を逮捕する直前の定期入れの状態については乙野の供述があるものの、乙野が定期入れを上に上げられたという時の定期入れの位置については、明確な供述がない。また、先に認定判断したとおり、定期入れを抜き取られる感触といっても、必ずしも確実なものとはいえない。そうだとすると、乙野の供述どおりの事実があったとしても、窃盗未遂の犯罪行為が明白に存在したということは困難であるといわざるをえない。

しかしながら、定期入れを抜き取られる感触というものは、当人にしか分からないもので、これを他人が評価することはかならずしも容易ではないから、三村が、この感触についての乙野の供述を信用して、逮捕当時において定期入れが他人によって上に上げられたもの、すなわち何者かによりすりの犯罪行為が行われたと考えたとしても、それを直ちに軽率な判断であるとして非難することはできない。したがって、窃盗未遂の犯行の有無に関する三村の判断を、違法であると断定することは差し控えるべきである。

しかしながら、原告がすりの犯人であることが明白であったかどうかを検討すると、前述二2(三)において認定判断したとおり、右の乙野の供述するところによっても、原告がそのすりの犯罪行為の現行犯人であると断定するに足る根拠はないのみならず、犯人ではないかと疑うに足りる相当な根拠も存在しないといわざるをえないのである。そして、現行犯逮捕においては、通常の逮捕におけるように犯罪の嫌疑があるという程度では足りず、現行犯人であることが明白であることを要するのであるが、右に認定判断したところによれば、当時の資料のみでは、犯人ではないかと疑うに足りる相当な根拠があったとまでいえず、本件について通常逮捕の請求がされれば、これが却下されるおそれが濃厚であったといわねばならないから、それよりより厳しい要件である原告が現行犯人であることの明白性があったとは到底いえないものである。

もし、三村ら公安職員が、乙野のいうところによって原告が犯人であることが明白であると考えたとすれば、それは、ひっきょう、乙野のいうとおり原告が乙野のま後ろにおり紙筒を所持していた事実があるとしても、それが犯罪と犯人とを結び付ける明白な事実にあたるかどうかを冷静に検討せず、周囲の状況からみて、他の者の犯行である可能性がありうるのにこれを考慮にいれずに、その可能性を排除する事実の存否について検討を怠ったままで、乙野が原告を犯人であるというのを、そのままうのみにした結果によるものといわなければならない。

このように、三村ら鉄道公安職員は、乙野の逮捕行為に現行犯逮捕の要件である犯人の明白性が欠けていることを看過し、安易にその要件があるものと考えて、原告の身柄の拘束を続けた違法及び過失があり、この点について、被告清算事業団の責任は否定しえない。

3  また、三村が原告の押送にあたり手錠を使用したことは、当事者間に争いがないが、右のとおり原告は釈放されるべきであったから、手錠の使用も違法でこの点についても被告清算事業団に責任があるものといわなければならない。

四  被告東京都の責任

1  次の事実は、当事者間に争いがない。

新宿警察署刑事課捜査係長山口は、被告東京都の公務員であった。

2  被疑者であった原告の引致を受けた捜査機関についても、私人のした逮捕に現行犯逮捕の要件があるかどうかを審査し、もしそれが欠けるときは釈放しなければならない義務があることは、前述のとおりである。

乙野が、本件逮捕の当日、警察官に直接犯行状況を述べたことを認めるに足りる証拠はない。しかし〈証拠〉によれば、逮捕当日に作成された乙野の鉄道公安職員に対する供述調書が、新宿警察署に送付されたことが認められる。そうすると、山口は、この調書から事実を認定し、逮捕要件を審査する義務を負っていたというべきである。

右の供述調書の内容については、乙野が鉄道公安職員に申し立てたところに特に付加したり削除したことを認めるに足りる証拠はないから、逮捕要件の審査義務については被告清算事業団に関してと同じ問題があり、結局山口警部補が逮捕の違法を見逃して原告の拘束を続けたことは違法であり、同人には過失があるものと判断される。

3  次に山口による取調が違法に長時間にわたったかどうかについて判断する。

原告は、昭和五五年七月二四日における山口の原告に対する取調が午後三時から同八時半頃まで行われたが、これは不法に長時間にわたる取調であると主張する。

しかしながら、午後八時半というのは、稼働している人も多い時刻であるし、取調の開始も午後三時というかなり遅い時刻であるというのであるから、原告主張の時間に取調が行われたとしても、これが時間的にみて非常識であるとはいえず、この点に関する原告の主張は採用できない。

4  取調において原告主張の脅迫、利益誘導があったかどうかについて判断する。

(一)  次の事実は、当事者間に争いがない。

山口は、昭和五五年七月二四日に原告を取り調べた。その開始時刻は、午後三時頃である。

(二)  原告の主張に沿う証拠としては、次のものがある。

(1) 原告は、七月二四日の取調について、次のように供述する。

山口は、原告に対し、当初家庭の状況等をきいたあと、乙野と原告との位置関係を説明させたうえ、午後三時半頃、「乙野が、定期入れが上がってきたと言っている。あんたがとろうとしたのに決まっている。本当のことを言え。」と申し向けた。原告は、これに対し、「自分は身体の向きを変えただけであって、紙筒が乙野にあたったかもしれないが、なにもやっていません。」と答えた。それから山口と原告は、「本当のことを言え。」「なにもやっていません。」と押し問答になり、これが約三時間続いた。山口は、部屋中に響き渡るような大声で怒鳴った(〈証拠〉)。

山口は、原告に対し、同日午後七時頃、「あんたは前科もないようだし、やりましたと言えば寛大に扱ってもらうように書いてやるから、明日、区検に行って釈放になるだろう、いつまでも否認していると裁判で決着をつけなければならないが、裁判官も検事もあんたがやってないとは思わないよ、あんたは負けるよ、それに裁判所はこれから夏休みに入るから、公判が始まるのは九月の中旬だ、あんたはそれまで留置場に入ってるのか。」と申し向けた。原告は、無実であるのに犯行を認めるわけにはいかないと考え、否認を続けたが、さりとて逮捕されて家族も心配しているであろうし、三時間以上にもわたる取調で頭も混乱しており、早く解放されたいと考え、悩んだ末心ならずもやりましたと述べた(四回七ないし九丁)。

(2) 証拠によれば、次の事実が認められる。

ア 原告は、昭和五五年七月二四日午後八時過ぎ、自宅への電話を許され、電話に出た妻仲本満子に対し、「明日は帰れるだろう。」と言った。仲本満子は、翌日、原告を迎えるために、新宿警察署に赴いた。

証拠〈省略〉

イ 原告は、捜査中、接見に来た弁護人や仲本満子、取り調べを担当した検察官である大森孝(八月五日)に対し、利益誘導があったと述べている。

証拠〈省略〉

右アで認定した事実に関し、証人山口敬吉は、原告が明日帰る旨を電話で話したことを否定する証言をする(三回一三丁)。しかしながら、仲本満子が原告を迎えるため翌日警察署に来たことと対比すれば、右証言は採用できない。

右イで認定した事実に関しては、証人大森孝は、後に原告が利益誘導の指摘をしなかったとの証言もしている(二回三七丁)が、これは、上記証拠と対比して採用できない。

(3) そこで前記(1)の原告の供述の信用性について検討する。

ア まず、右の供述のうち自白すれば区検に行って釈放になるだろう、しなければ公判になり長期間釈放されない旨山口警部補から言われたとする供述部分は、裁判所には一般の官庁にはない夏期の休廷期間がありそのために公判が始まるのが九月中旬になるという点が、裁判所の実情に通じているとは思われない原告だけの発想で出てきたとは考え難く、そうとすれば山口警部補から言われて初めて原告がそのような知識を得たものという可能性が高いことからみて、原告の供述は、かなりの信用性があるといえる。

イ しかも、七月二四日午後八時すぎ原告が妻の仲本満子にした電話で、原告が明日帰れると述べた事実は、山口が、原告が自白すれば寛大に扱ってもらうように書いてやるから明日帰れるだろう旨述べたとの原告の供述の信用性を補強するものである。

ウ さらに、原告は、捜査中から一貫して前述(1)のように山口警部補の利益誘導があったと供述していたのであって、この事実も原告の供述の信用性を高めている。

エ ところで、原告は、山口が原告に対し「あんたは前科もないようだし」と言った旨供述するが、他方原告には過失犯による罰金刑ながら前科があり、かつ、それは取調開始後まもなく山口に判明していたことが認められる(証人山口敬吉の証言一回二〇丁)。そうすると、右の事実と原告の供述は符合せず、原告供述の信用性は低いようにみえる。

しかしながら、原告の過失犯による罰金刑とは、自転車に乗っていて老婦人に負傷させたというものであり、被疑者の処遇に影響するようなものとは考えにくく、前科がないのとさほど変わらないのであるから、前記の事実は、原告供述の信用性に影響するものではない。

オ また、山口は、被疑者の処分について約束できる立場にないから原告のいうような利益誘導はするはずがないと供述する(一回二〇丁)。なるほど、山口が警部補であったことは当事者間に争いがなく、同人に起訴不起訴を決定する権限はないし、事件が検察官に送致された後は、検察官が勾留請求等被疑者の身柄について専権をもつ。しかしながら、司法警察員は、事件を検察官に送致する前に、留置の必要を判断して被疑者を釈放する権限を有する。また、犯罪捜査規範一九二条によれば、司法警察員が検察官に事件を送致する際には、送致書に情状等に関する意見を書くこととされており、司法警察員が、事件を検察官に送致した後の捜査について影響力をもたないとはいえない。原告の供述中に出てくる「寛大に扱って貰うように書いてやるから、明日、区検に行って釈放になるだろう。」(四回八丁)という部分は、右の情状等に関する意見のことを指している可能性があり、原告供述は、不合理ではない。前記山口証言は、原告供述を弾劾しうるものではない。

カ 原告は、自白が不任意であったと供述するが、山口が、七月二四日の取調の初期に黙秘権を告知していることが認められ(証人山口敬吉の証言一回六丁表、原告本人尋問の結果四回二丁裏)、不任意ではないとの疑問もありえなくはない。しかしながら、黙秘権の告知が取調べ開始後何度も行われたことまでは認めることができない。そして、原告が本件の取り調べの前に取り調べを受けた経験は、前記の過失犯の捜査において警察官、検察官から各一回の取り調べを受けたというのみであることが認められる。このように、原告にとっては取り調べは極めて希有の経験であったことをも考慮すると、一度黙秘権が告知されればその後時間が経過した後にも当然任意の供述が期待できるかどうかは疑問であり、黙秘権の告知により原告供述の信用性が直ちに失われるものではない。

(4) 以上の原告の供述に反し、証人山口敬吉は、七月二四日の取調経過につき次のように供述する。

ア 取り調べを始めてから、原告は、「身体の向きを変えたところすりと間違えられて逮捕されただけで、すりはしていない」と供述していた。そこで、山口は、乙野のポケットから定期入れが出ていたこと、逮捕された経緯について説明するように求めた。すると、原告は、犯行を認めた。それは、取調を始めてから二〇分程度経過したころであった。それから、具体的な犯行方法を聞き、調書を書いた。途中、四〇分程度の休憩を入れた。調書の作成に、三、四時間かかった(一回六丁、三回三丁、一二丁)。

イ 原告に対し、本当のことを言えとどなったことはないし、原告が主張するような利益誘導もしたことがない(一回二〇丁、二回三一丁、三回七丁、四回二〇丁)。

(5) しかしながら、右の山口の証言には、次の疑問がある。

ア 山口は、取調を開始してから約二〇分後に、原告の自白を得たと証言する。他方、原告が、自宅などに電話したいと申し出たのに山口がこれを禁じたことは、当事者間に争いがなく、原告が自宅に電話することを許された時刻は、先に認定したとおり午後八時過ぎである。山口が原告の自白を得てから電話を許可するまで、なぜこのように間隔があくのか理解し難い。山口は、その間供述調書を作成したと証言するが、調書作成の前後で電話の可否に相違が生じる理由が不明である。山口は、取調中に四〇分の休憩も入れたと証言するが、その時に電話を禁じる理由も不明である。

イ また、山口は、調書の作成に三、四時間を要したと証言する。しかしながら、取調当時、犯行の計画性や共犯関係を疑うべき状況であったことを認めるに足りる証拠はなく、そのような単独での非計画的な犯行について、長時間にわたって調書を作成するというのも考えにくいところである。

(6) 以上のように、山口警部補の供述には疑わしい点が多いのであるが、さらに、被告東京都は、原告が山口警部補に対し、八月二日の取調の際、「自分の悪い癖で」虚偽の自白をした旨供述し、山口警部補は、その旨調書に記載したと主張している。しかし、犯罪行為を自認すれば処罰を受けるなど自分に不利益が及ぶのであるから、そのようなことを、単なるくせやわるさでするなどということは考え難いのであり、はたして通常の人がそのようなことを述べるかどうかは極めて疑問であって、山口警部補は、虚偽の自白の責任を取りつくろうため不自然な調書を作成したのではないかとの疑問が生ずる。

(7) 以上、七月二四日の取り調べに関する原告の供述は、供述内容にも不合理はなく、これを補強する証拠もあって、全体としての信用性も高いというべきである一方、これに反する証人山口敬吉の証言は、疑問が多く採用し難い。これらの検討の結果からみると、前述(1)の原告の供述どおりの利益誘導があったと認めるのが相当であり、この認定を動かすべき証拠は見当たらない。

(三)  原告は、七月二四日、山口に対し、自宅等への電話連絡を希望したところ、調書作成終了後である午後八時過ぎまで右連絡を禁じられたが、これは不法であり、弁護人選任権をも侵害されたと供述する。

(1) 山口が原告の電話を禁じたことは、当事者間に争いがない。

(2) また、〈証拠〉によれば、原告は新宿警察署に引致された当初から、自宅等への電話を希望していたことが認められる。

(3) しかしながら、逮捕された被疑者については、弁護人はまたは弁護人になろうとする者以外の者との接見交通権を認めた規定もなく、罪証隠滅防止の見地から外部との連絡が断たれることがあるのはやむをえないところであり、弁護人選任権の妨害にわたらない限りにおいて、電話連絡を禁じるのも違法ではないといわざるをえない。そこで、弁護人選任権の侵害の有無について検討するに、原告は、山口の取調の前に行われた弁解録取の際に、弁護人は国選でよいと答えていることが認められる(証人山口敬吉の証言一回四丁裏)。また、原告が、同日夜自宅に電話するまでの間に、弁護士に対して直接又は自宅等を通じ、電話連絡をしたいと申し出たことを認めるに足りる証拠はない。

そうすると、原告がそもそも弁護人を選任するための行為をしたとは認められないのであるから、山口の行為によって弁護人の選任が妨げられたということもできない。電話の禁止に関する原告の主張は、採用の限りではない。

五  そこで原告に生じた損害について判断する。

1  証拠によれば、次の事実が認められる。

原告は、小野山宗敬弁護士に対し四五万円を、原告の義兄である白井喜久男は、樋口和博弁護士に対し一〇万円を、それぞれ支払った。これは、本件で問題となった窃盗未遂被疑事件についての、弁護人に対する報酬である。

証拠〈省略〉

2  原告は、他にも本件に関して支出したものと認められるが、その額を認定するに足るだけの証拠を発見することができない。

3(一)  次の事実は当事者間に争いがない。

原告は、昭和五五年七月二四日逮捕され、翌二五日勾留され、八月四日に至り釈放された。

(二)  右の身柄拘束による原告の直接的損害は、拘束一日あたり五〇〇〇円、合計六万円が相当である。

(三)  なお、被告東京都は、事件が検察官に送致された後は、検察官の権限と責任において勾留請求や取調が行われるのであるから、東京都の職員山口の行為と勾留との間には因果関係がないと主張する。

確かに、勾留請求が検察官の権限であることは所論のとおりである。しかしながら、山口が現行犯逮捕の要件の検討を誤らず、原告を釈放しておれば、逮捕前置主義により、原告は勾留されなかったのであるから、山口の行為と原告に対する勾留との間には条件関係が存在する。そして、司法警察員が逮捕された被疑者を検察官に送致した場合、被疑者が勾留されることがかなり多いことも当裁判所に顕著な事実であり、これによれば、山口による原告の留置継続と勾留との間には相当因果関係が存在するといわねばならない。ある権利侵害に関し複数人の行為が因果関係をもつ場合、各行為者は、他の者の行為を理由に不法行為の責を免れることはできない。この点に関する東京都の主張は、失当である。

4  原告は、既に説示したとおり、要件を欠く逮捕及びこれに引き続く勾留により身柄を拘束された。そして、〈証拠〉によれば、原告は、家族への心配をさせられ、会社の上司、同僚、隣人等からの信用を失墜する等の精神的損害を被ったことが認められる。これらの精神的損害に対する慰謝料は、一〇〇万円が相当である。

5  乙野、三村、山口による各不法行為は、いずれも原告の身柄の拘束に対して因果関係を有しているから、共同不法行為というべきであり、乙野、清算事業団、東京都は、計一六一万円の損害の賠償について連帯して責任を負うというべきである。

6  原告は、謝罪広告を求めているが、右の慰謝料により、原告の精神的損害は慰謝されると考えられるから、謝罪広告の請求を採用することができない。

六  日本国有鉄道が、日本国有鉄道清算事業団に移行したことは、当裁判所に顕著な事実である。

七  以上説示したところによれば、甲事件における原告の請求は、被告両名に対し各自一六一万円の支払いを求める限度において理由があるから認容し、そのほかの部分は理由がないから棄却し、乙事件における原告の請求は全額理由があるから認容し、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条、仮執行宣言について同法一九六条一項をそれぞれ適用し、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 淺生重機 裁判官 久留島群一 裁判官 前田順司は、転補のため署名押印できない。裁判長裁判官 淺生重機)

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